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自利利他 2024・12・12

先日に比べさほど寒くないここ宍粟市。

朝の4時に起き、ここ二日間発酵させたEngrain・Seigle・Epeautreのパンを仕込む。
一言に小麦と言えど、それぞれに小麦の性質が違い、
その違いに合わせて、粉の分量とルバンの分量が違いもちろん捏ね方も異なる。
温度管理された場所で一定の商品を作るのではなく、
日により温度も湿度も違うため一つ一つ考えて作るので、
パンを作ると言ってもなかなか奥が深い。
しかも、グルテンが多いパン小麦とは違い、グルテンが少ない古代小麦なので、
工程一つ違えると膨らまないので、発酵具合をよく観察しておかないと失敗する。

さて、話は変わり、最近の日本は劣化していると、このブログでも何度も言っているが、
肌で感じることは、やはり、自分のことしか考えていない奴が多い。

本来の日本人は人のこと、周りのことを気にかけ、優しさのある民族だが。
しかし、今ではそれも影を潜め、我利我利な奴が多いように感じる。

では、なぜ、我利我利が増えたのか?
それは、明治維新以降の拝金主義と戦後の劣化した教育の結果だ。

娘は小学一年生なのだが、まだ一年生なのに心無い言葉を浴びせる子がいるようで、
ピュアなはずの小学一年生だが、親の悪い教育のせいか、幼い心も劣化している。
自分のことしか考えない親に育ててもらう子は、やはり、自分のことしか考えない。
カエルの子はカエル。劣化したカエルの子はもっと劣化したカエルに育つ。
末恐ろしい日本が待ち構えているようで本当に未来が心配だ。
言葉は使い方で時として暴力となり、人を傷つける。
相手のことを想い行動していれば、言葉の暴力は振るわない。

さて、ここで小咄。

昔、ある所に、地獄と極楽の見学に出掛けた男がいた。
最初に、地獄へ行ってみると、そこはちょうど昼食の時間で、
食卓の両側には、罪人たちが、ずらりと並んでいる。

「地獄のことだから、きっと粗末な食事に違いない」と思ってテーブルの上を見ると、
なんと、豪華な料理が山盛りにならんでいる。
それなのに、罪人たちは、皆、ガリガリにやせこけている。
「おかしいぞ」と思って、よく見ると、彼らの手には非常に長い箸が握られていた。
恐らく1メートル以上もある長い箸だ。

罪人たちは、その長い箸を必死に動かして、ご馳走を自分の口へ入れようとするが、とても入らない。
イライラして、怒りだす者もいる。
それどころか、隣の人が箸でつまんだ料理を奪おうとして、醜い争いが始まるのである。
これを「我利我利」の精神という。

次に、男は、極楽へ向かった。夕食の時間らしく、極楽に往生した人たちが、食卓に仲良く座っていた。
もちろん、料理は山海の珍味。

「極楽の人は、さすがに皆、ふくよかで、肌もつややかだな」と思いながら、ふと箸に目をやると。
それは地獄と同じように1メートル以上もある。
「いったい、地獄と極楽は、どこが違うのだろうか?」
と疑問に思いながら、夕食が始まるのをじっと見ていると、その謎が解けた。
極楽の住人は、長い箸でご馳走をはさむと、
「どうぞ」と言って、自分の向こう側の人に食べさせ始めたのだ。
にっこりほほ笑む相手は、「ありがとうございました。今度は、お返ししますよ。あなたは、何がお好きですか」と、自分にも食べさせてくれた。
男は、
「なるほど、極楽へ行っている人は心掛けが違うわい」と言って感心したという話だ。
これを「自利利他」の精神という。

同じ食事を前にしながら、一方は、俺が俺がと先を争い傷つけあい。
もう片方は、相手を思いやり、相手から思いやられ、感謝しながら、互いに食事を楽しんでいる。

どちらが幸せかということは明らかだ。
人は自分さえよければでは、幸せになれない。
一人ぼっちになってしまう。幸せの花というのは、相手(他)と自分との間に咲くのだ。

人は色々と経験するために生まれてきたという。
楽しいこと辛いことも全て経験なのだ。
しかし、人を辛い目に合わすのは意味が大きく違う。

人への「自利利他」精神を持って日々行動したいものである。

では今日も楽しく想いやりを持って今日しかない今日を楽しく暮らそう。





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